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ファーレ立川とは

 1994年10月13日にオープンした「ファーレ立川」とその一帯は、1922年(大正11年)開設の陸軍飛行場として栄えていました。関東大震災で罹災した民間航空が立川に来て国際空港にもなりましたが、1931年の満州事変を境に民間機は羽田に移り、第二次世界大戦後は立川飛行場が米軍に接収されて基地の街として栄えました。

 1977年(昭和52年)に米軍基地が全面返還され、広大な跡地のほとんどは「ファーレ立川」の西側に広がる国営昭和記念公園と広域防災基地などです。この新しい街はJR立川駅の北口から今ではデッキで渡って来る事のできる商業・業務市街地(オフィス、高級都市型ホテル、映画館、都市型デパート、ガソリンスタンド、ショールーム、店舗、公共施設として生涯学習センターや図書館、郵便局など)として開発されました。

 1979年には「立川飛行場返還国有地の処理の大網」が出され、1976年に国土庁より発表された「第3次首都圏整備計画」の「業務核都市構想」では立川など6地区が指定されたことで、1982年に立川市が「立川都市基盤整備基本計画」を、1983年に東京都が「多摩都心立川計画」を策定した。この時期に住宅・都市整備公団が立川市・東京都の要請をうけ、立川が「多摩の心」として、また「新しい文化」の街を誕生させることを目指し街の計画が始まりました。ファーレ立川は経済都市づくりの時代に計画が構想され、心の豊かさを求める時代に建設が進められました。

 立川市は新長期計画の基本方針として「都市景観の形成」を揚げ、魅力ある街並みの形成、彫刻のある街づくりを進め、街づくりのテーマも「文化とやさしさ」とし、「文化」を具体的に表す一つの方法としてアートが導入されました。“驚きと発見の街”を提案したアートフロントギャラリーにアート計画の企画運営を依頼しました。

ファーレ立川のアートコンセプト

「ファーレ立川」のアート計画には、アートプランナー制を導入した北川フラム氏により、新しい街づくりのアートコンセプトが考えられていきました。この街を森にみたて、森に息づく小さな生命(妖精)をアートととらえる3つのコンセプトが生まれました。

一つめのコンセプト『世界を映す街』人と人が呼応する仕掛けをつくりました。同じ時代に生きるさまざまな人達のさまざまな考えが、森に棲むさまざまな生命の鼓動のように、ここには多くのアートが点在します。36ヵ国93人のアーティストによる110点の作品があります。

二つめのコンセプト『機能を物語に!(ファンクションをフィクションに!)』広域防災基地にある飛行場が隣接しているため建物には高さ制限があり、アートのために用意された特別なスペースは無く、あるのは歩道・車止め・壁・換気塔・点検口・街路灯・散水栓・ツリーサークル・広告板などの機能やちょっとしたデッドスペースでした。それらは、森の生き物たちが巣をつくったり隠れたりする絶好の場所でした。機能にアートがいろいろなかたちと工夫で取り付きました。

三つめのコンセプト『驚きと発見の街』この森に棲む妖精は人々の五感にささやきかけています。アートにはキャプションを付けず直接アートを感じ、探して楽しむ事ができます。そして参加したアーティストの多くは、この街のためにこの3つのコンセプトで作品プランを寄せ作品が設置されていきました。

1994年の12月の「アート竣工の集い」では共にひとつの街をつくったアーティスト・関係者の600人のなごやかな交流があったそうです。その前日にはアーティストたちは連れ立って街を歩きながら、作家がそれぞれの作品の前で説明がおこなわれ拍手が起こり、記念写真をとりさまざまな言語が飛び交っていたということです。

このような計画でアートが多く置かれている街は当時他にはありませんでした。今ではアートによる街づくり計画のためここを見学に来られる方々もおられます。また、アートが置かれ10年以上経ちこの街と立川市や企業や個人の賛同者がアートの再生・修復に大きく貢献してくださり、再び輝きを取り戻しています。 [参考文献:ファーレ立川アート計画記録集]